覇王・董卓6

都、洛陽では宦官の陰謀により大将軍何進と弟の何苗が暗殺された。
何進の腹心でもあった袁紹がこれに反発して宦官を一斉に排除するため、後宮に軍勢とともになだれ込んだ。
宦官は髭が生えない。
ここで奇妙な出来事が起こったと言う。
後宮にいる正常な男子で、髭を剃っていた者は下半身をおろして、…ついていることをアピールしたという。
なんだか間抜けな話だが、命に関わる問題である。


袁紹の突撃によって宦官は一掃されたかに見えたが、一部の宦官が皇帝「弁」とその弟「協(陳留王)」をつれて郊外へ逃走した。
しかしやがて追いつかれたのか、もはやこれまでと、宦官は近くの河へ身を投じた。
弁と協はそのとき何故か見つからなかったようである。


董卓軍は洛陽に近づいてきたとき、二人の少年に出くわしたという。
もちろん弁と協である。
この僥倖により、董卓には天下が見えることになった。

覇王・董卓5

この命をうけて上洛してきた諸侯の中に董卓がいた。
彼はもともとからして西域出身で、漢の外で暴れまわっている羌族という異民族とも交流があったようである。
その彼が都での騒乱に便乗して天下を手中に収めんと洛陽に向かって出発した。
……天下を取るためかどうかは実際のところ分からない。
何故なら、この段階の董卓の立場で、天下を取れるのには十分な条件が揃っていないからだ。


しかし何かしらの野望に燃える董卓は一刻も早く洛陽にたどり着く必要がある。
率いてきた兵数は3000人あまりであった。
西域には董卓子飼いの兵士が20万もいたようであるが、まさかこれらすべてをつれてこれるわけが無い。
西域は常に騎馬民族等の外敵が存在していたし、また一刻を争うのに全軍を一気に集めることなど到底不可能というものだ。


外敵の備えのために守備兵は多く残していく必要もある。
なぜなら董卓の基盤は西域だからだ。
そしてすぐに号令をかけられた兵士をかき集めて急行した、というのが現実だろう。
それに補給の問題もある。
あまり一度に多数を連れて行けば、食料を確保することも難しくなる。
とは言えこれらの条件は他の諸侯も同じであるが。


こうしていの一番に都洛陽にたどり着くわけだが、ここで董卓には僥倖と言うべきものに遭遇する。

覇王・董卓4

朝廷内部での権力闘争が火を噴いた。
事情はかなりややこしいのだが、時の皇帝である霊帝崩御したことにより勃発する。

宦官派と外戚派の衝突である。
この両者は後漢が始まってからというもの、常に争い続けていたので特に珍しい闘争ではなかった。
しかし時の大将軍何進は宦官を追い詰めるために各地方の牧や太守に上洛するように命じた。


このあたりを見ていて思うのだが、何進には直属兵が少なかったということなのだろうか?
普通に考えれば宦官を滅ぼすのに何もそこまですることは無いだろうと思ってしまう。

もしも何進に兵力が足りていなかったのだとすると、諸侯を呼び寄せてしまえば自分に取って代わられてしまう可能性が出てくる。
権威にひれ伏すのは名実があるからではなく、そのバックに実質的な軍事力ないしは神聖不可視なベールに覆われている必要がある。
神聖不可視なベールとは、神であったり皇帝であったり教皇であったり天皇であったり「居る」だけで効力を発揮するもののことだ。
それでも軍事力を持っていなければたちまち滅ぼされるケースもある。


国家の上層部が腐敗していると諸侯が見ているとすれば、権威は無いに等しく、また軍事力もなければ諸侯の行動に歯止めをかける要素がない。
皇帝の勅であれば話は変わるのだが、大将軍は臣下なのである。
臣下であるということは、「臣下」であると言う意味では平等なのである。


この命令を立案したのは袁紹であったとも言われている。
それほど宦官は強力な軍事力を手にしていたのだろうか?

覇王・董卓3

さて、何もしない董卓に代わって朝廷から派遣されてきた将軍が張温であった。
彼は金で官位を買ったらしい。
そもそも漢上層部の腐敗によって地位は買収するものとなっていたので、別に彼が特別悪者であったわけではない。
しかし、賄賂で地位を手に入れた彼は軍事能力が無いことを理解していた。
そこで黄巾の乱の折に名を上げた武官を同行させることとした。
有名どころでは孫堅陶謙(のちの徐州牧)の名が見える。


朝廷では相変わらず外戚(皇帝の妻の一族)と宦官(皇帝のお気に入り)が年中行事のように対立していたが、黄巾の乱終結した後は中央集権を維持することもままならぬ状態となったようで、州の長官を「牧」に改めた。
それまでは「刺史」が実質上の長官だったが、「刺史」には軍事行動を起こす権限がない。
代わった「牧」には軍事行動を起こす権限が与えられる。
例えば自分の州に山賊が多数表れた場合、中央から認められている兵士数を権限上は増やすわけにはいかない(もちろんやっていただろうが)が、「牧」にはこれが認められる。

現代の例で言えば、京都市長に徴兵権を与えるとか、徴税権を認めるとか、というものである。
小泉元首相の三位一体改革の先取りである。
「地方は地方の裁量で頑張れよ」というわけだ。

この当時は律令制度による公地公民制度なので、すべての権限は中央になければならなかったが、これを維持することが出来なくなったので、地方に権限を委譲したわけだが、これを認めると諸将の勝手な振る舞いが目立つようになっていく。

中央の権威が衰えると軍事的にも百家争鳴となる。
室町時代後期やら江戸時代末の乱れと同じものである。


さて、話を戻すが孫堅はこの頃から随分評価の高い武官であったわけだが、この韓遂討伐にあたっても見事な戦略眼と戦術論を持っていることが伺える。
そして、孫堅董卓ともここで初対面となるが、二人は共に相手を危険人物と評価したようである。
孫堅は特に董卓が「何もしない」ことに対して極めて厳しく、論理的に非難している。


ただ、董卓は後に孫堅を懐柔しようと試みることとなる。
そういえば彼の曹操も自分の陣営に加わるように促してもいる。
呂布は養子にしてしまっている。
その他宦官に排除されて野に下った士大夫の再登用を奨励している。
人材登用には実に熱心な一面もあるのが董卓なのである。
このとき董卓孫堅を煙たい奴だと思ったはずであるが、実力のある者はドンドン登用する癖を持っていた。


ともかくここでは韓遂討伐は成らなかった。
少しの間、董卓に雌伏の期間が訪れる。

覇王・董卓2

韓遂討伐を賜った董卓の取った戦術は……なんと黄巾討伐のときと同じく「何もしない」であった。
このあたり、董卓は無能であるとか何とか言われる所以なのだが、後に皇帝を擁立して政治を思うままに動かすような豪腕振りからすると、「何もしない」というのが腑に落ちない気もする。


歴史というものの悲しい部分なのだが、歴史を学ぶに当たり大変重要なことは、自分が結果を知っていると言う事実である。
そう、事実なのだ。
答えの載っている答案用紙を見る学問と言うことになってしまう。
だから暗記科目になってしまうのである。

そうではなくて、歴史を愉しむためには答案用紙は白紙でなければならない。
そしてここにどのような答えを書くかは、自分次第である。
だから、誤解を恐れずに言うとIFを愉しむ学問であり、心理学でもある。

歴史にIFはないと言う。
結果からしか物事を分析しないのであれば当たり前のことである。
ならば暗記するしかない。

私は暗記が苦手なので、やらない。
歴史を紐解いていく中で、「この人はどんな人だったのかな」「なぜ、このような行動や発言をしたのかな」と、想像するのが愉しいのである。

歴史を題材にしたシミュレーションゲームが山ほどある。
私はこれらが大好きなのだが、これは結局IFを愉しめるから好きなのである。


さて董卓は2度に渡り、討伐軍司令官として「何もしない」を貫いた。
何故だろう?


董卓は結局近侍に殺害されると言う歴史を残してしまうが、一度は実質最高栄華を極めている。
三国無双的に言えば「酒池肉林の夢」は叶っている。
つまり、「酒池肉林の夢」が最終戦略とするならば、彼の戦略眼は一流モノである。

少し先走り過ぎてしまった。
では董卓のその後の動きを辿ってみよう。

覇王・董卓1

皇甫嵩朱儁の活躍で黄巾の乱終結……となったわけだが、実はこの終結という言葉には語弊もある。
壊滅したのは黄巾軍の主力2部隊であって、すべての黄巾族が討伐されたわけではないということだ。
全国一斉蜂起をした中で主力2部隊は首都洛陽を攻め落とすことを目的とした大規模な編成だったので、実質的にはこれを壊滅さたことで、乱が終結したことには違いないが、全国にはまだまだ黄巾族が跋扈していたということである。
今風に言うと黄巾テロがくすぶっているとでもなるだろうか。
後ほど大変重要な問題となるが、今は兎も角先に進みます。


黄巾の乱終結の前後に新たに反乱を起こしたモノもいた。
漢中の五斗米道・張衡が反乱を起こし、漢中の諸県を攻略。
そしてその後30年間に渡り朝廷に反旗を翻し続ける人類史上において最もタフな漢(おとこ)、韓遂涼州で登場する。


漢中は三国志演義でも語られている通り、天然の要塞であり、ここを攻略するには相当な出費と犠牲を払うことになるため、懐柔策をとることとなる。
しかし涼州反乱軍と漢中反乱軍が結びつく機運が漂うにあたり、曹操は漢中を攻略することとなるが、これはまた後ほど。


この韓遂涼州にて反乱を起こしたことにより、朝廷より討伐軍が派遣されることとなった。
その将軍が董卓である。

黄巾の乱5

宛城攻略に当たり朱儁軍は2万、黄巾軍10万という図式となっており、黄巾軍は篭城。
これを攻め落とすのは容易にはいかない。
何しろ自軍の5倍の人数で篭城しているわけだ。

ここで朱儁は補給線を断つことによる長期戦を展開する。
しかしまたしても宦官の陰謀が迫る。
ここで朱儁が功績を立てると後々厄介となるわけで、皇帝に朱儁の更迭を上奏した者がいたらしい。
朱儁はこの事実を知ってか知らずか、短期決戦を挑む。


激しい戦闘の末に宛城攻略を果たすこととなった。
この戦闘には孫堅が参加しており、縦横無尽の活躍をしたようだ。
孫堅黄巾の乱終結の後に朱儁の上奏により大きく出世を果たしている。
ここで宛城篭城戦は終結


変わって董卓罷免後の冀州方面だが、皇甫嵩が派遣されてきたころに天公将軍張角が病死した模様である。
数々の奇蹟を起こし、如何なる病人をも治療せしめた張角も自らを治療させることは出来なかった。
一斉決起から半年後の死であった。
代わって黄巾軍の主力部隊を指揮したのは弟の張宝張梁の両名であった。

こちらの戦線も黄巾軍の圧倒的多数に対して皇甫嵩は寡兵。
しかし皇甫嵩は夜襲、奇襲を駆使することにより黄巾主力部隊を壊滅させる。
張宝張梁を討ち取ることに成功。
同じ頃に苑城もかたがついたようで、無事に黄巾の乱終結と言うこととなった。


漢の上層部の腐敗が引き起こしたと言ってもよい反乱であったが、実質的にはこの乱により漢帝国は崩壊したと言っても良いだろう。
いつの時代にも人材は存在するもので皇甫嵩朱儁は正に漢の英雄ではないかと思うのだが、その後の董卓の専横の最中に二人とも病死する。
この時代、彼らに勝る名声の持ち主はいなかっただろうし、実力は折込済みで、二人がその気になれば後の群雄割拠をも生きぬけただろうと期待してしまう。
あまり野心がなかった感もするので、病死しなくても自ら表舞台には立たなかった可能性もあるが。


兎も角、次は董卓の出現である。