覇王・董卓3

さて、何もしない董卓に代わって朝廷から派遣されてきた将軍が張温であった。
彼は金で官位を買ったらしい。
そもそも漢上層部の腐敗によって地位は買収するものとなっていたので、別に彼が特別悪者であったわけではない。
しかし、賄賂で地位を手に入れた彼は軍事能力が無いことを理解していた。
そこで黄巾の乱の折に名を上げた武官を同行させることとした。
有名どころでは孫堅陶謙(のちの徐州牧)の名が見える。


朝廷では相変わらず外戚(皇帝の妻の一族)と宦官(皇帝のお気に入り)が年中行事のように対立していたが、黄巾の乱終結した後は中央集権を維持することもままならぬ状態となったようで、州の長官を「牧」に改めた。
それまでは「刺史」が実質上の長官だったが、「刺史」には軍事行動を起こす権限がない。
代わった「牧」には軍事行動を起こす権限が与えられる。
例えば自分の州に山賊が多数表れた場合、中央から認められている兵士数を権限上は増やすわけにはいかない(もちろんやっていただろうが)が、「牧」にはこれが認められる。

現代の例で言えば、京都市長に徴兵権を与えるとか、徴税権を認めるとか、というものである。
小泉元首相の三位一体改革の先取りである。
「地方は地方の裁量で頑張れよ」というわけだ。

この当時は律令制度による公地公民制度なので、すべての権限は中央になければならなかったが、これを維持することが出来なくなったので、地方に権限を委譲したわけだが、これを認めると諸将の勝手な振る舞いが目立つようになっていく。

中央の権威が衰えると軍事的にも百家争鳴となる。
室町時代後期やら江戸時代末の乱れと同じものである。


さて、話を戻すが孫堅はこの頃から随分評価の高い武官であったわけだが、この韓遂討伐にあたっても見事な戦略眼と戦術論を持っていることが伺える。
そして、孫堅董卓ともここで初対面となるが、二人は共に相手を危険人物と評価したようである。
孫堅は特に董卓が「何もしない」ことに対して極めて厳しく、論理的に非難している。


ただ、董卓は後に孫堅を懐柔しようと試みることとなる。
そういえば彼の曹操も自分の陣営に加わるように促してもいる。
呂布は養子にしてしまっている。
その他宦官に排除されて野に下った士大夫の再登用を奨励している。
人材登用には実に熱心な一面もあるのが董卓なのである。
このとき董卓孫堅を煙たい奴だと思ったはずであるが、実力のある者はドンドン登用する癖を持っていた。


ともかくここでは韓遂討伐は成らなかった。
少しの間、董卓に雌伏の期間が訪れる。