黄巾の乱4

続いて盧植が向かった冀州方面だが、こちらは盧植の連戦連勝で進んでいき、広宗という名の城に追い詰めた。
ここで一気に攻め落とすはずだったが、ストップがかかる。

官軍3将軍が出撃する少し前の話だが、皇甫嵩は「党錮の禁」を解除することに成功していた。
党錮の禁」は皇帝の寵愛をうける宦官(去勢者)が、自らの権益を維持するために、政敵である豪族出身の官僚などの名士を朝廷から排除させた事件であるが、この制度は維持し続けていたのである。
つまり排除されるに値する名士(これを党人と呼ぶ)は全て官僚になれないというものである。

これを解除するということは、有能な人材が再び集まってくることにつながる訳だが、宦官にしてみれば自分たちの権益を捥がれたということだ。
既得権益を侵された人間が侵した人間を憎むのはどこの国でもいつの時代でも変わることが無い。


党錮の禁解除の報復に戦闘中の盧植を更迭。
現場で起こっている事件よりも重要なことはいくらでもあるようで、腐敗した「お上」のやることも古今東西似たようなものである。
あまりこの当時の宦官を弁護してもなんだが、やはり手柄を立てると発言権が増すし名声も上がるものなので、これは大変都合が悪いし、下手をすると自分たちが粛清されてしまう。
反乱を鎮圧する正義と、実質「漢」という国家を背負っている正義が天秤に架かった結果、反乱鎮圧の正義は2の次、ということになった。


しかし盧植はこのようなことが起こることは予想できなければならなかったと思う。
確かに反乱鎮圧は成功していたが、黄巾討伐を成功させることが正義とでも思っていたのであれば、宦官にも宦官の持つ正義があるのだと考えなければならない。
盧植には政治力がなかったのである。


そしてその後任には董卓が赴任。
しかしこの董卓が、何もしなかった。
盧植更迭の理由が何もしていない、というものだったらしいが、董卓は本当に何もしなかった。
自分の兵力を温存しておく戦略だったのだろうか?
と言うわけで董卓、罷免。


そんなわけで冀州方面には皇甫嵩が派遣されることになった。
豫州方面はあらかた片がつき、次の戦場は「苑」という名の城方面なので皇甫嵩はそちらを朱儁にまかせ、自らは埒のあかない冀州方面へと移動したというわけだ。


この地点で主な戦場は冀州と苑の二箇所となっていた。

黄巾の乱3

さて、朝廷も討伐軍を派遣することとなった。
冀州豫州の黄巾軍が主力ということで、この二方面に出動。
冀州方面には盧植を、豫州方面には皇甫嵩朱儁の2将を送り込んだ。
兵力は黄巾軍よりも遥かに少ないとのことで、4万前後と推測されている。
黄巾軍が10万規模なので、半分にも満たない兵力だ。


このとき曹操は騎都尉として豫州方面へ独立部隊として参戦している。
ただし、この方面のみの援軍だったようで、ここが鎮圧されると帰還した模様。
孫堅朱儁の部将として参戦。
劉備は……どうやら雑兵として冀州方面に参戦?どうも名前が見当たらないようです。


まずは豫州方面だが、朱儁部隊と黄巾軍波才の部隊が戦闘。
これに朱儁は敗退してしまう。
これにより皇甫嵩朱儁軍は近くの城にて篭城を余儀なくされる。

緒戦で敗れるとは不甲斐ないものだと思ってしまうが、豫州近辺はなだらかな平原地帯となっているので、特に奇襲などで敗れたわけではないと思う。
正面からのぶつかり合いだったと推測するのだが……。
黄巾軍がただの農民ではないと思う根拠はここなのだが、やはり数の多い方が勝つのだろうか。

しかし、朱儁の部隊が敗走したということで、皇甫嵩が敗れたわけではないようである。
では朱儁の部隊が……多く見積もって兵力2万で10万の波才軍と対峙したとも考えられるので、これではいくら日頃訓練している正規軍でも勝てなかったということだろうか。


しかしこの後は漢の名将皇甫嵩が神懸りの兵法で失地挽回する。
後に「軍を動かせば神の如く、謀は余人に真似ができる所ではない」など賞賛される彼が用いたのは「火計」であった。
三国志演義では劉備がおこなっていた火計のオリジナルは皇甫嵩である。

この奇策を始めとして連戦連勝を積み重ねていき、みるみる豫州方面の平定が成る。
まだまだ戦いは続くのだが、皇甫嵩朱儁ともに用兵は巧みで、黄巾平定の立役者はこの2人で間違いない。
三国志演義にて劉備の引き立て役となっているのには憐れみを感じてしまう。

黄巾の乱2

張角は志半ばで病死してしまう。
彼はお札とか聖水などを使用して病気を治したり、数々の奇蹟を起こしたとも言われているが、私はここで一つ思う。
病死でなく、死刑にされていたら、当時の宗教観が見れたかもしれないなと。


そうです、数々の奇蹟と聞けばイエスを思い出してしまう。
私はキリスト教徒ではないので、復活したなどとは考えていない。
しかし、それを信じるからこそキリスト教が始まるわけだし、なによりそう信じたいと思わせる何かをイエスは持っていたということだ。
数々の奇蹟を起こしたかどうかも私は眉唾ものなのだが、死んでいないとか復活したということを信じる人が多かったということは、それだけの影響力があったということで、これを否定することはできない。
なぜなら事実であるから。


エスは神(の子)でした。
日本では張角のような例は無いかと思ったが、見当たらなかった。
さすがは神国日本である。
しかも多神教なもので、不幸な死に方をするとみんな怨霊神となり、災いを起こすのである。
困ったものなので、鎮魂とか祀るとかでなだめることになっている。

しかもそれが政治の一環となっている。
政治の「政」と書いて「まつりごと」と読むのは日本の怨霊信仰から発している。
菅原道真崇徳上皇早良親王長屋王などは天皇家がしっかりと祀らなければならないし、この怨霊が厄災を起こさなければ国家は平和なのである。
だから平安時代の政治は(鎌倉移行は将軍が統治するので)歌ばかり詠んで、実際の政治をしていないと言われているが、実はしっかりと政治を行っていたわけだ。


さて長くなったがもし張角が死刑となっていたら、復活したのか……、それとも怨霊信仰とはならないだろうが、何かしらの信仰が起こったのだろうか。
それとも病死では信仰が起こらないという証明をしてくれているのだろうか。
エスが病気や交通事故で死んでいたら、どうなったのかな……なんて考える私は不純でありますかね。

黄巾の乱1

張角を棟梁とする農民反乱で、黄色をシンボルカラーとしていたことから黄巾の乱といわれるが、どのようなものだったのだろうか。

黄巾党は意外と組織化されており、指揮命令系統がしっかりしていたようである。
さすがに軍事訓練を重ねて精鋭化はされてはいなかたと思うが。

張角自身は「天公将軍」と名乗り、弟二人は「地公将軍」「人公将軍」と名乗った。
これはなかなかの政治力を感じることができる。
中国では事を成すにあたり、「天の時」「地の利」「人の和」がなければ成功しない、という思想があった。
この思想は、農民たちにも周知の知識であったので、「大将軍」とか、何とか将軍と名乗るよりは、誰にでも分かりやすい名称であったわけだ。
なかなかの配慮である。


さて、張角の戦略だが、これもかなり練られた内容であったようで、馬元義という腹心が都「洛陽」で内部より撹乱、呼応することと、それに合わせて外部から洛陽を突くと言う、内外両面の戦略である。
馬元義は内部撹乱に失敗して、殺されてしまうが、それを機に各地で一斉蜂起。
世に言う黄巾の乱となる。


本来の戦略とは変わってしまったが、外部圧力のみで国家転覆を図ったということになる。
36箇所で、それぞれ数万規模の一斉蜂起なので、少なくとも36万。
主力は10万の冀州軍、豫州軍10万とのことなので、多く見積もれば100万人規模ともなる。

この主力2軍が、馬元義の内応に合わせて洛陽に迫るはずだった訳だが、馬元義が成功していればひょっとすると後漢は滅んでいたのではあるまいか。

前述の党錮の禁は、党人の朝廷への立入を禁じたからこのような名称なのだが、張角は党人であった可能性があるようだ。
締め出されて、それを恨みに思って国家転覆を図った……。
党人ということはどこかの地方豪族か何かと言うことになるが、いやはやそれほど名声を持っていたのか、下位層の不満が高すぎたのか、その両方であるとは思うが、ここまでの反乱を計画し、実行するとは政略力も相当なものであると思うのは私だけだろうか?
失敗したから大したこと無いとも言えなくは無いが……。

三国志10

後漢も時代が進むにつれて「外戚」「宦官」が台頭してくるようになる。
外戚」は皇帝の母の一族のことで、皇帝が幼い場合に代わって政権を運営する。
やがて皇帝が成長すると、外戚から政権を取り戻そうとするのだが、そのときに活躍するのが「宦官」であった。
宦官は後宮に仕える去勢された男子のことで、幼い頃に実の母親が息子を去勢して宮中に預けたもの。
皇帝は幼い頃から勉強、遊びを宦官とともにするので、親近感のある存在であった。
この「宦官」を頼りに、「外戚」勢力を排除しようとするわけだ。


外戚」「宦官」はたびたび権力争いをおこなう。
そこに、豪族出身の官僚が反発して、これまた豪族官僚対宦官というように争いを繰り広げるようになる。
外戚と宦官の争いは皇帝の親近感もあり、宦官が勝利することが多かったが、これに続き、官僚との抗争にも宦官が勝利することが多かった。


ここにおいて、「党錮の禁」が起こる。
豪族官僚を「党人」として国家から排除した事件である。
党人とは、簡単に訳すと「悪い者」とでもなるだろうか。


宦官主体となることにより、上層部の腐敗が進んでいくこととなる。
彼らを抑える勢力がなくなったからである。


党人は下野して郷里に帰るわけだが、ここで儒教的思想により名声を集めることを重視するようになった。
そして、なぜかは私もよく分からないのだが、この名声を高めるためにフィーバーしたのが「人物鑑定」であったようだ。
郭泰や許劭といった鑑定士が有名である。
彼らに鑑定されることにより、名声を高めることができ、高い評価を得ると「名士」の一員とされる。

三国志9

劉秀こと光武帝は皇帝による直接支配を強化するために儒教と厚く推進した。
光武帝以前の前漢や秦の時代では「法治」と言い、官僚が法律を厳しく適用して豪族を弾圧する形をとっていた。
まさに「法」による統治である。
これでは豪族側からの反発は絶えないわけで、政策としては行き詰まりとなっていた。


そこで光武帝が推進したのは「寛治」と言い、豪族を上手く使役させるシステムであった。
一般農民にかける税を豪族に負担させることにより、儒教の徳目である「清」「廉」と言う名声を手にすることが出来るとしたのである。
そしてどういう仕組みかよく分からないが、この儒教的名声をてにした豪族は官僚への道が開かれるようにされていたのである。

このシステム、農民(小作人)側から見ると、豪族(大土地所有者)が税金を変わりに納めてくれるので、豪族を支持するし、豪族は税金を立て替えることにより名声を手に入れ、さらに官僚への道が開かれ、また皇帝は豪族の反発を押さえ、税金もしっかり徴収できるという、まことに結構なものであった。


教科書的な説明になってしまったが、これで国家が運営されるのだから面白い。
これでは小作人が豪族に搾取されていたかもしれないし、そもそも「清」とか「廉」って誰がどのように評価するのかと思ってしまう。
豪族出身の官僚は大した学もなかっただろうし、相当後ろ指を指されていたのではないだろうか。
ともかく、このようなところが儒教の宗教である所以でもあるわけだが、官僚への道が開かれると言う、利権は大きい。

三国志8

秦の始皇帝以降、皇帝が直接農民を支配する制度を敷いた。
全ての権力は皇帝のもので、郡県制とも言う。
郡県制とは、地方長官のようなものだが、「太守」「県令」と言い、彼らの直接の上司は皇帝という形だ。


しかし、農村の現場では、大土地所有者が、小作人を雇うというか、面倒をみるというか、官僚ではなくいわゆる豪族が実質の農民を支配していたのである。
これは日本の平安時代でも見られた傾向でもあるが、これにより皇帝から任命派遣された官僚と、豪族が対立する構図となる。
前漢、新の時代では、豪族の勢力を削ぐための政策がいくつか出されたが、そのたびに失敗していた。


後漢を設立した劉秀は豪族の出身であり、また儒教を熱心に学んだ人でもあった。
そこで劉秀は豪族を官僚に組み入れ、皇帝の支配下に置こうと考えた。
その豪族懐柔に儒教を使用する。