黄巾の乱1

張角を棟梁とする農民反乱で、黄色をシンボルカラーとしていたことから黄巾の乱といわれるが、どのようなものだったのだろうか。

黄巾党は意外と組織化されており、指揮命令系統がしっかりしていたようである。
さすがに軍事訓練を重ねて精鋭化はされてはいなかたと思うが。

張角自身は「天公将軍」と名乗り、弟二人は「地公将軍」「人公将軍」と名乗った。
これはなかなかの政治力を感じることができる。
中国では事を成すにあたり、「天の時」「地の利」「人の和」がなければ成功しない、という思想があった。
この思想は、農民たちにも周知の知識であったので、「大将軍」とか、何とか将軍と名乗るよりは、誰にでも分かりやすい名称であったわけだ。
なかなかの配慮である。


さて、張角の戦略だが、これもかなり練られた内容であったようで、馬元義という腹心が都「洛陽」で内部より撹乱、呼応することと、それに合わせて外部から洛陽を突くと言う、内外両面の戦略である。
馬元義は内部撹乱に失敗して、殺されてしまうが、それを機に各地で一斉蜂起。
世に言う黄巾の乱となる。


本来の戦略とは変わってしまったが、外部圧力のみで国家転覆を図ったということになる。
36箇所で、それぞれ数万規模の一斉蜂起なので、少なくとも36万。
主力は10万の冀州軍、豫州軍10万とのことなので、多く見積もれば100万人規模ともなる。

この主力2軍が、馬元義の内応に合わせて洛陽に迫るはずだった訳だが、馬元義が成功していればひょっとすると後漢は滅んでいたのではあるまいか。

前述の党錮の禁は、党人の朝廷への立入を禁じたからこのような名称なのだが、張角は党人であった可能性があるようだ。
締め出されて、それを恨みに思って国家転覆を図った……。
党人ということはどこかの地方豪族か何かと言うことになるが、いやはやそれほど名声を持っていたのか、下位層の不満が高すぎたのか、その両方であるとは思うが、ここまでの反乱を計画し、実行するとは政略力も相当なものであると思うのは私だけだろうか?
失敗したから大したこと無いとも言えなくは無いが……。