覇王・董卓7

皇帝を手中にした董卓だったが、彼には弱みがあった。
管轄区であった涼州から首都洛陽へは兎に角すぐに連れて行ける兵しか伴ってこなかったので、兵力があまりにも少ないということであった。

日本人にはあまり馴染みが無いことかもしれないが、国家というものは軍事力なくしては機能し得ないものである。
どんなに良い思想、崇高な理念があろうとそれを実行に移すには背景に軍事力が伴っていなければ成功しない。
なぜなら必ず反対派というものは存在するからだ。


国家の形成期では自分にたてつく者は抑止しなければならないし、政権が成立しても治安維持や外敵からの侵略を跳ね除ける事ができなければ全く機能しないのである。


さて、兵の少ない董卓が目を付けたのは金吾軍であった。
首都洛陽の近衛軍のようなもののようだが、この総大将丁原が不徳な人物だったようで、将兵の間で浮いた存在になっていた。
しかも実質的に金吾軍を統括していたのは呂布という、五原(モンゴル地方)出身の人物であった。


呂布といえば裏切りに裏切りを重ねる猛将とのイメージがあるが、もともとモンゴル騎馬民族出身であると言うことから鑑みると、そのイメージは漢民族からみたものでしかない、とも言える。
狩猟民族と農耕民族という、人類史上最初のカテゴライズで分けられた、一方からの視点である。


狩猟民族は忠とか義とか情などと言っていたら、明日の食べ物がなくなるような世界で生きている人々である。
人間、明日の食料がなければ文化的、文明的な生活や思考、行動は起こせないものなのである。

農耕民族は食料がある程度確保されることにより、「食」以外のことに目を向けることが可能となったのである。
世界四大文明と言うものを歴史で何度も習うが、なぜ肥沃な地域で文明が栄えていったかというと、実は「暇」が出来たからである。
現代でも毎日残業で忙しいサラリーマンは趣味を愉しむことはできない。
生活のために稼ぐことで精一杯だからである。
それでは趣味を持つことなど出来ないわけで、これと同じ理屈である。

食料を確保したことにより「暇」が生まれ、そこから文化や文明が構築されていくのである。


その狩猟民族側からの視点で見れば、呂布は現在を生きるための選択肢として、文化的に言う「裏切り」を誘発していったわけである。
この「文化的裏切り論」を展開するならば、漢民族出身者で競うべきではないかと思うがいかがだろう?

日本文化を知らない外国の人に向かって「日本文化をしらないのか?」と問うようなものだ。


ともかく董卓は金吾軍を手に入れるために呂布を懐柔して見事配下に迎えることになった。
呂布丁原の首を持ってきたときにまず訊いたことは
「金吾軍はお主に付き従っていような?」
であったと言う。