覇王・董卓8

金吾軍を手に入れたとはいえ、まだまだ兵力は不足していたようで、ここで小細工を弄した。
洛陽に入っている揮下3000の兵を夜半密かに洛陽を脱出させ、あくる日に西側の門から入場させるというものであった。
董卓の勢力は西域が中心だったので、その西域から続々と兵士がやってきていると見せかけようとしたわけである。
まさに小細工だが、こんなことをしなければならないくらい董卓には兵力が足りなかったのである。


そんな折、現皇帝「弁」を廃して弟の「協」を皇帝にするように画策する。
これをおこなった背景には外戚勢力の排除があったことは明白である。
外戚、つまり皇帝の母方の一族は常に政治に口出しをしてくるので、董卓としてはうるさい限りであっただろう。
宦官と外戚が年中行事のように争っていたのが後漢時代の特徴であったが、先日の混乱で大将軍何進とその弟で何苗は宦官に討ち取られていた。
またそれの報復として名門出身の「袁紹」が宦官を皆殺しにしていた。


これにより宦官は勢力は沈静化し、外戚で主だった者は「弁」の母である何皇后のみとなっていた。
つまり、董卓が天下を操縦しようと思うならば、邪魔な存在は「弁」と「何皇后」の二人であったと言うわけである。
弟の「協」の方が「弁」よりも王者の風格を備えた人物であったとされるが、そんなことは董卓にとってはどうでもいい話である。


「弁」と「何皇后」の暗殺を成功させた董卓はいよいよ天下を牛耳る存在となった。
このとき、董卓曹操を自分の配下にならないかとのお誘いをした模様であるが、曹操はこれを拒否。
曹操の能力と野望を恐れた董卓は配下にならぬならと暗殺を試みるが失敗し、曹操は洛陽から出奔することとなった。
また時を同じくして何進の参謀であった袁紹も出奔し、地盤の渤海郡へと向かった。


この二人を逃したことが後に痛手となる。
しかしここにおいて漢の首都洛陽は董卓のものとなったのである。


残虐非道な性格であったのはどうも事実のようだが、意外にも人材登用には熱心な一面もある。
党錮の禁により追放された名士を再登用し、次々に高い官位を与えたりもしている。
本来ならば自分の昔からの配下に高い地位を与えて基盤を固めそうなものだが、どうも名士を優遇するのが彼の政策であったようである。


しかしそんなこともつかの間、袁紹曹操董卓に対して武力行使に出てくる。
世に言う反董卓連合軍の結成であった。
この結成によって、群雄割拠が巻き起こるようになる。
時代は風雲急を告げた。