三国志7


突然ですが、1/30に新アルバム「デュエット」が発売されるということで、前祝に「上原ひろみ」の「XYZ」をご紹介。
ロックバンド「ドリームシアター」の後輩にて大ファンと言う彼女の作り出すメロディーは実に情熱的。
この曲をTUTAYAで視聴して、速攻借りた、思い出のナンバー。
新作を聴くのが待ちどおしいです。


さて本題ですが「宗教」ってなんだろう?
この問いに答えようとすればまさしく何冊もの本となる。
しかし、あえてその答えの一つ、あくまで一つを、黄巾党の乱に付随する形で見てみよう。


「宗教」とは「論理学」である。
そしてその必要条件には「究極の非論理を元とする」。


人間、納得するにはやはり論理的に説明されなければならない。
では、正しいと思うこと、納得できることをドンドン突き進めて行くと、ある時、壁にぶつかる。
そして、この壁を乗り越えようとすれば、これは宗教の枠を超えて、ミクロ論理学とでも言おうか、哲学と言うか、その世界へと到達する。

この壁で論理的思考を終了させるのが宗教である。
と言うより、この壁を出発点とすると、言い直そう。
「神」の存在を認めるのがキリスト教であるとするならば、この「壁」に「神は存在する」と書いてあるわけだ。
もちろんここで、神が存在するか否かをさらに突き進めることはできない。
なぜなら神の存在は科学的に証明できない故に「非論理」だからだ。

神が存在すると言うテーゼがあれば、後はそれに乗っかる形で論理的説明は可能となる。
論理的説明が可能となれば、人間は理解できるし、納得できる。


ユダヤ、キリスト、イスラム教の一神教はこれで説明が可能だ。
儒教においても、「天」とか「先祖崇拝」などの理論が存在している。
これは明らかに非論理である。
この非論理の下に中国の歴史は流れていく。
ソクラテス孔子の対談があれば聞いてみたいところである。
もし、孔子ソクラテスに勝てれば、上記に私が書いたことは全て誤りとなります……。


さて、ここで一つの疑問が湧いてくる。
人間は自分で理解し、納得できることで、思考や行動を行っているにもかかわらず、あまりにも宗教に傾倒する人々が多いと言うことだ。
論理によって納得を得るというのは、その発生を哲学としようが宗教としようが、同じことである。
ならばその人口比率はせめて半々とかでも良いのではないかと勘ぐってしまう。
では哲学と宗教において決定的な差とはなんだろう?


それは「救済」があるか否かである。
人間、いくら理論的に説明をされて、納得感を味わうことができても、それだけでは釈然と消化できないのである。
結局自分に対して何をもたらすのか、を考えてしまう。
すると、絶対真理の追究よりも、相対救済の獲得に目を奪われるのは当然の帰結となる。
風水やホ○カズの言葉に真理的なものを感じたりするのも、一つの例ではある(私はこれらも宗教と位置づけている)が、人類の長い歴史の中では、政情不安に陥ったときに大衆が選択するのは常にこの「救済力」の理解水準なのである。


ローマ帝国において、全人口の5%にも満たないキリスト教が何故、ローマの国教となり得たのか、日本の室町時代に何故、浄土宗ではなく、天台宗でも時宗でも曹洞宗でもなく一向宗浄土真宗)の信者が急激に増えたのか、そして黄巾党の乱が中国全土を巻き込むものへと発展したのか、の答えとなる。

そう、簡単に「救済」への道が開かれているからだ。
ここに人間の、いや大衆の原動力がある。
そして逆説的に言えば、安易に救済される、非論理精神から発する論理的教義が大衆に受け入れられる時代は、何かしら「混乱」の渦中にあると言える。



ちなみにローマ帝国キリスト教が国教となり得たのは、度重なる蛮族の襲来と、終身制にも関わらず76年間に23人もの皇帝が血みどろに入れ替わることによる政情不安に、多神教という守護神よりも、明確に進むべき道を指し示してくれる一神教に大衆が救済を求め、また皇帝も唯一神統治権を与えられることにより地位を神格化したことによる。

一向宗が大名に対抗できるほどの勢力となったのは、「南無阿弥陀仏」と唱えることにより阿弥陀如来のおわす極楽浄土へ往生できるからである。
何故、極楽浄土へ行けるのかと言うと、阿弥陀如来が約束してくれているからである。
この約束を「本願」という。だから浄土真宗には本願寺と言う寺がある。
これが同じ称名念仏系の浄土宗だと、「南無阿弥陀仏」を、京都の地名になるくらい、まさに百万遍唱えなければならない(冗談ではなく、これが由来)。