三国志4

「名士」という言葉は、当時には無い。
ないので、彼らを指す言葉が無い。
それでは大変不便なので「名士」という単語を使おうと思う。


「名士」は三国志を愉しむ上では避けては通れない知識である。
三国志演義」では英雄・豪傑が縦横無尽に活躍している印象があるが、実際に政権を維持・運営をしていくには、彼ら「名士」の協力が不可欠であったのです。

名士とは知識人の間で名声を得て、それをもとに地域社会で支配階層を形成する人々であります。
列挙しますと
1 漢国において高い地位に上り詰めたら、その家族は名声があがるので、それにより名士の一員となれる。
2 やはり学問には通じている必要はある。
3 出身地方においても人気も高い。
4 名声によって成り立つものであるがゆえに、豪族のように兵を持っているわけではない。

などがあるが、テレビゲームで知力とか魅力が高いが、武力は少ないような人物が名士に近いだろうか?


ともかく、名士は名声によって地域社会に影響力と支配力を持ち、また名士同士で独自のネットワークを形成していた。
また、君主に対して服従関係は持っていない。
したがって君主に対して忠義を尽くす必要は全くなかった訳で、むしろ対等に近い協力者であろうとしている。
そのため名士の発言力が強くなりすぎると、君主権力は弱体化する。
となると君主は自己権力を高めるために名士が服従するような行動に出る。


はっきり言って、三国志の抗争は武力の戦いよりも君主と名士の戦いと言っても言い過ぎではない。
例を幾つか出そう。

曹操は君主であるが、陳宮は名士である。したがって忠誠を誓う必要はなかった。

陳登は徐州出身の名士である。劉備曹操に敗れたときでもついていく必要はないし、曹操は自分の重宝することがわかっていた。

赤壁の戦いの前に、呉において開戦か降伏か、散々もめていたが、あれは名士と軍部の対立であり、名士は降伏しても自分たちは登用されることが分かっているので、降伏論を展開したのである。
しかし、孫権にしてみれば、名士の反対を押し切って開戦しても、名士の支持を失うことになり、その後の政権が崩壊するおそれがあった。
そこで周瑜魯粛の出番となるが、これはまたの機会に。

曹操とジュンイクが対立し、死まで賜る結果となるのは、まさに君主と名士の鬩ぎあいである。

張任が最後まで劉備に協力しなかったのは、彼がその他の名士や、豪族と違い、名将ではあったが、蜀に地盤も名声も無いため、劉備政権ではまず出世ができないから。

諸葛亮と法正の仲の悪さは有名だが、これは荊州代表名士と益州代表名士であったから。

袁紹は優柔不断と言われるが…まあ、それも若干あるだろうが、彼ほどの有名君主ともなると、集まって来る名士層も相当高名な者ばかり。となれば決まるものも決められないという事態も容易に想像できる。


とまあ、箇条書きだが、三国志における「名士」、ご理解頂けたでしょうか。
ここを理解していないと三国志の面白さは半減しますこと請負です。